【メルボルンのロックダウン】
連邦制のオーストラリアでは州ごとに、新型コロナウイルスの流行に対する対策が取られています。3月~5月のシャットダウンにより各州の感染者数が全体的に減り、メルボルンのあるヴィクトリア州では6月6日にはあらたに感染した人の数が0になりました。そのころBlack Lives Matterの集会の是非が激しく議論され、その週末には数千人がメルボルンでのデモに参加しました。翌週 小中高校での遠隔授業も終了になり、児童生徒が学校生活に戻ることができました。恐れられていたBLM集会での集団感染も現実のものとならず、すべてが順調に進んでいるようでした。
けれども規制が徐々に緩和されると感染者数が再び増え始め、6月17日には州内であらたに21人が感染、7月4日には108人のあらたな感染者が記録されました。数日後ヴィクトリア州と隣接するニューサウスウェールズ州(シドニーがある)とのあいだの州境が閉ざされ、7月7日にはあらたな感染者の数が191人にのぼり、その結果メルボルン圏(人口五百万弱)に「ステージ3ロックダウン」が発令されました。けれども事態は収まらず、8月2日にあらたな感染者が671人にのぼったのに伴って、それまでの緊急事態宣言に加え、大災害事態が宣言され、「ステージ4ロックダウン」がしかれたのです。
「ステージ4ロックダウン」では午後8時から午前5時まで外出禁止、食料品などの買い出しは毎日 各世帯から一名のみが自宅から半径5キロ以内の地域に出ることが許され、犬の散歩も含めて健康維持のための運動も各自 一日一時間のみ、飲食店は持ち帰り(テイクアウト)か配達のみ、結婚式は禁止、葬式は参加者10名まで、などという規制で、9月27日まで続く予定です。9月に入り、感染者数が徐々に減っており、9月19日のメルボルンのあらたな感染者数は14人のみです。ちなみに同じ日の東京都の感染者は162人、日本全国で601人です。
【なんでロックダウンなの?】
「日本と比べて感染者数がそんなに少ないのにロックダウンなの?」という素朴な疑問をいだかれるでしょう。確かにその通りです。オーストラリアは「世界の果て」にあり、ニュージーランドに行く以外はオーストラリアを経由・通過して外国に行く人もありません。必ずしも新型コロナを撲滅しようという方針ではありませんが、外国との行き来をなくして、シャットダウンをすれば感染者をなくすことができ、そうすれば国民の生活が通常に近いものになるという考えのようです。もともとオーストラリアの動植物は世界に類を見ないものが多数あり、それを保護するために国外からの動植物の持ち込みには常に厳しい検疫が存在します。そのため、国民の間に「鎖国」を受け入れる土壌があるのかもしれません。
閉鎖せざるを得ない事業に対する金銭的な補償は一応あります。けれども、3~5月のシャットダウンに続く、2回目の10週間にわたるロックダウンはさすがに市民にとって厳しく、当初は州政府の政策を歓迎していたメルボルン市民にも嫌気がさしてきています。こんなに数が少ないのにそこまでする必要はない、という意見も増えています。かく言うわたしも、考え方が変わってきました。4月の時点ではわたしは民主主義の社会では「仮に‶わたし〟個人が健康に優れていて、おまけに神様のことを信じているのでウイルスに感染してもちゃんと完治する、という意見の人がいても、やはり家に留まらなければなりません。法の下の平等と他者の権利の尊重は現代文明社会の基本です。」と書きました。それは今でもその通りだと思いますが、それではすべての人々の生命を守るためにそこまで厳しくロックダウンするべきなのかという点で、意見が変わりました。
私個人の意見では、4月の時点での都市閉鎖はよいことだったと思います。世界中で都市の閉鎖・封鎖が行なわれ、自動車や航空機の使用が減ったため炭素排出量が世界的に減少したのを経験できたのは人類にとってプラスだったでしょう。各国で医療制度の弱点や老人介護施設の問題点などが浮き彫りになり、それに対する社会意識が増したのも有益なことです。アメリカの大統領はともかく、世界的に人類の一体感が生まれたのも将来への希望へとつなげることができます。
しかし、生命を守るために生活を中断するというのはどういうことなのでしょうか?
【科学はどう行動すべきかを示さない】
都市閉鎖・封鎖の政策が実行されるとき「生命を守るのか、経済を守るのか」という議論が起こりました。オーストラリアでは「生命を守らずして、経済を守ることはできず」というのが一般的な意見でした。また政府関係者や専門家は「科学が我々の行動を導く」と繰り返して唱えます。確かに科学は非常に有益な情報を提供します。けれども「わたしたちがどう行動すべきかは科学によって規定される」というのは誤りだと思います。個人にせよ、集団にせよ、わたしたちの行動を規定するのはわたしたち自身の「人生に対する姿勢」ではないでしょうか。自分が上辺で賛同したり信じていたりする「人生観」や「信条」ではなく、実際の行動を規定している根源的なものです。気候変動に関する同じ情報を得たとしても、現在の自分の生活スタイルを維持することが何よりも大切だという価値が骨の髄までしみ込んでいる人にとっては、自分の生活に影響を与える対策をとることは考えられません。このような人々にはいくら科学を説いてもらちがあきません。
【「生きる」ということの意味】
「生きる」とはどういうことでしょうか? 「国民が生きることを守る」と考える上で、もし「生きる」ことに生物学的な「生命」の意味しか認めないとしたら、つまり、息をしていれば「生きている」と考えるなら、ヴィクトリア州政府(労働党政権です)の政策でよいわけです。通常の生活を一時停止してみな自宅に引きこもり、最低限の経済活動しか許さず、新型コロナに感染してしまった人は隔離して、自力で呼吸できない人には人工呼吸器をあてがうという方策です。一方、「生計を立て、消費活動を行う」ことこそ「生きる」目的だと考える人は、多少の人間が新型肺炎に倒れたとしても社会全体の経済活動をなるべく続けようとするでしょう。世界的に見ても、新自由主義的な傾向の政権の多くがこのような政策をとろうとしたのではないでしょうか。「生命か、経済か?」という選択です。
しかし、こんな単純な二者択一ではないでしょう。人間として「生きる」ことは、経済活動だけでなく、文化やコミュニティーでの生活、個人的なことの追求、どのように「死と向き合う」かも含めた、すべての「人生の経験」と考えるとどうでしょうか。ずいぶん違った政策を探ることができると思います。「生命至上主義」に立つと、老人介護施設に入っているお年寄りは、よそから新型コロナウイルスが持ち込まれないように家族との面会も禁止、感染してしまったお年寄りは隔離されて家族に会えないばかりか、世話をしてくれる看護師も医療用防護服に包まれ、人間の温かみが全く感じられない孤独な生活を余儀なくされます。結果として一人で寂しく息を引き取るお年寄りが増えることになり、またオーストラリアで実際に起こっているのは、州の境が封鎖されているために身内の人でも臨終の付き添いだけでなく、葬式にも出席できない場合が出ています。自分の命を一日でも引き延ばす代わりに、愛する者たちに見守られて家族と人生最後のひとときを過ごしたいと考えるお年寄りもいるはずです。
【コロナと生きる】
日本ではどうか知りませんが、英語ではよく、“fight’ against COVID”(新型コロナウイルス感染症と闘う)という言い方をします。「戦争」の比喩もよく使われます。戦争が始まると、通常の生活が中断され、すべての資源が敵と戦うことにつぎ込まれます。 人々の「人生行路」がさえぎられるのです。子供たちは外で遊べなくなり、学校にも行けず、若い人たちは就職しようにも仕事がありません。けれども、パンデミックに対処することは本当に戦争なのでしょうか? このウイルスの流行は数か月どころか、数年間続くでしょう。ワクチンが開発されてもすぐに事態がすぐに収まることはありません。ヴィクトリア州政府がとっているような政策を長期的に維持することは無理があります。ヨーロッパ諸国を見ても流行の第二波が押し寄せているにもかかわらず、どの政府も全国的なロックダウンの再導入には慎重です。コロナウイルスとどのように共存するかを考える必要があります。お年寄りはなるべく新型コロナに感染しないように、老人施設などでの介護や経済的弱者の衛生を充実させ、市民一般も必要に応じてマスクの着用や空間的距離の確保などを行うなど、感染を防ぐだけでなく、栄養や心の保健を促すことなどによって、新型コロナウイルスに感染した際の症状の悪化を防ぐ方法があると思います。肺癌の危険があるからたばこは全面的に禁止、交通事故が起こるから自家用車の運転も禁止…というわけではありません。
ある意味で、すべての人々(労働者)の平等を要求する運動から生まれたオーストラリアの労働党が国民全員の「生命」を平等に守ろうとするのもわかりますし、経済成長を求める保守政党が物質的な経済活動の救済を重視するのも納得できます。しかし、このほかにも市民の生き方の多様性を重視しつつ国民すべての共生・共栄を模索する考え方も出てきてほしいところです。安楽死・尊厳死を認める考え方や、日本ではまだそこに至っていませんが、不純な薬物使用や危険な組み合わせによる死亡事故を減らすため、違法の薬物であっても若者の集まる大きなイベントで無料の薬物鑑定(オーストラリアでは pill testingと呼びます)を奨励する考え方があります。「死」や「薬物使用」自体を目の敵にするのでなく、それらとかかわりながら市民の「いのちの質」の向上を促進するという視点です。(世界の「居住に適した都市ランキング」で毎回上位に入るメルボルン、安楽死が認められるようになったヴィクトリア州で生活を封鎖するロックダウンが行なわれているのは、まったく皮肉な話ですが。
精神文化の自由、権利法制での平等、経済の互恵共栄という社会三分節の考え方は一種の「道具」であって、そこからすべてを解決するユートピア的な政策が導かれるわけではありません。国民の社会意識が進化するに従って社会政策も成熟していきますが、社会三分節の視点も社会問題を考えるうえで役立つ道具のひとつなのです。
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