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日本人・日本文化  ·  1月 25日, 2020年

20.01.25 多様性の中の「和」 

【和と輪】

日本人は「和」という言葉が好きです。中国人は古来東方の島国の民族を「倭」と呼んでいました。「倭」は「従順な」という意味だそうですが、同音の「和」のほうが好字であることから、奈良時代以降「和」の字に置き換えました。さらに大和朝廷のあった奈良(やまと)を「大和」と書くようになり、その後「大和」の範囲が日本国全土に広がるようになったわけです。日本では「和」が日本文化の代名詞になりました。

 

日本人は昔から「従順な」民族として知られていたのでしょうか? 「平和」や「調和」に通じる「和の国」は 美しい名です。ところで、私たちが「和」を考えるときに無意識的に重ねられるのが「輪(わ)」という言葉です。みんなで手をつないで「輪」を作るイメージ、あるいは「輪っか」のなかにみんな丸く収まっているイメージです。けれども「和」は音読み、「輪」は訓読みなので、それらは元来別の言葉であるといえるでしょう。数学での「和」は加法(足し算)の答えです。中国語の「和」は「and」という意味です。そう考えると、調和というのは必ずしも一つの輪に収まっていなくても、いろいろな物が加わっていながら調和が取れていればよいわけです。まさに多様性があるからこそ「足し算」の和であり、調和といえます。初めからみんな同じ「金太郎飴」では、調和でなく単一性に過ぎません。令和の時代に日本人は「和」のなかに多様性をもっと意識してとらえる必要がありそうです。「みんな一緒」じゃなくてもいいのです。

 

【夫婦同姓・教科書検定】

子どもの時、あるいはグループへの帰属意識が強いティーンエイジャーならともかく、大人になっても「みんなと一緒でなければ落ち着かない」、「右へ倣え」というのでは困ります。民主主義は個々人の自由意志に基づいていますし、自由があるということは多様なものがあるということです。自分は他人と違う意見を持っているということを、制度的あるいは心情的に表明できないと民主主義は成り立ちません。仲間と食堂に入って誰かが「かつ丼にしよう。」といったときに、自分が特にかつ丼を食べたいわけではなくても「じゃぁ私も…」と同調してしまうのは主体性の欠如です。

 

現在夫婦別性について議論されることがあります。昨年最高裁が「夫婦同姓」を定めた民法の規定を「合憲」だと判断した際に理由として挙げたのが、「夫婦同姓」が「社会に定着しており、家族の姓を一つに定めることには合理性がある」ということだそうです。(朝日新聞Digital版2019年3月28日付の記事「夫婦同姓は日本だけ?」)けれども、人々の意識が変わってきている現在、結婚したら「どの夫婦も一つの姓を名乗らなければならない」というのはあまり合理的ではありません。同じ姓だから家族の一体感が保てるというわけではないでしょう。夫の姓を名乗るカップル、妻の姓を名乗るカップル、それぞれの姓を使い続けるカップルと、いろいろあって構わないはずです。「みんな一緒」じゃなくてもいいのです。

 

同じように、学習指導要領に基づく検定教科書制度も問題です。全国の学校で行われる教育内容に‶ある程度の〟基準を保つために一応の目安や指針は必要かもしれません。けれども、それに基づいて国が検定した教科書のみが使用を許可されるという制度は行き過ぎです。そうしないと国民の間の知識・技能に整合性がなくなるとか、調和がとれないということなのでしょうか? これはすなわち多様性を認めないということにつながります。いろんなアプローチからさまざまな教科書・教材を使って教育が行われるからこそ多様な人材が育つはずです。「みんな一緒」じゃなくてもいいのです。

 

【日本国・日本民族・日本語】

日本は一民族国家であるという「神話」があります。裏を返せば、日本語を話す「日本民族」でないと本当の「日本人」ではないという意識があるということです。何をもって民族と呼び、言語と呼ぶのかは、いろいろ議論のあるところですが、いまでは少なくともアイヌは日本の先住民として国にも認められるようになりました。(血縁的には他の日本人との混血が進み、アイヌと自称する人々の日常の言葉も日本語ですが。)沖縄県(および奄美群島)の土着のことばを「日本語の沖縄方言」ではなく琉球語とし、そこに住む人々を琉球/沖縄民族とすべきだという意見もあります。その場合日本列島の大半の住民を「大和民族」とよびます。日本という国には大和民族(和人)も琉球人もアイヌ人も、さらには韓国・朝鮮人も、モンゴル人も、他の国々から来た人々も、さらにはその混血の人々も住んでいる、と考えるのが現状に合っています。大和民族の血が流れていなくても日本国民、日本語を話さなくても日本国民、であるという場合があるのです。日本列島に住み、日本国の成員として生活するものは誰でも日本人と呼んでいいはずです。(「Americanアメリカ人」、「Britonイギリス人」という言葉もそのように使われます。)また、もろもろの事情で、自分は「日本人でもあり、~人でもある」という人がいるのも当然です。日本人とは何か? その意識は「みんな一緒」じゃなくてもいいのです。

 

【日本人よ、己を知れ】

人間として社会で生きていくうえで、わたしたちは自分自身がどんな人間であり、どこを変えるべきかを知る必要が出てきます。その場合自分の頭だけで自分のことを考えていても自己認識にはつながりません。他の人々とつき合う中で自分の姿が明確になるのです。自分が他人にかけた迷惑はこれを認め、態度を改めなければなりません。これと同じことが日本という国にも当てはめることができます。自分の国を知るには外国のことも知らなければなりませんし、外国人が日本人のことをどう見ているかも重要になります。

 

外国のことを知るためには外国の文献を翻訳で読むこともできます。けれども外国人がどのような考え方をするのかを「肌で知る」にはその国の人々の言語を習う必要があります。自分の母語が知らず知らずのうちに世界の見方を規定しているからです。しかし、いくら英語が国際語であるからと言っても、日本人がそれだけしか学ばず、英米のニュースで報道される内容が世界諸国の意見であるかのように思うなら、それはとんでもない錯覚です。アメリカ主導で軍事介入などが行われる場合、アメリカ・イギリス・オーストラリアの英語圏三国が容易に同意するのに対して、ロシアや中国はもとより、ドイツやフランスも簡単にアメリカに追随することはありません。同盟関係にあるからと言って、同じ意見である必要はないのです。

 

自国の意見を深めるためにも、国全体としてさまざまな言語を習得する人材が必要です。特に隣国である韓国や中国、さらにロシアの言葉は重要です。韓国人や中国人との間に歴史的理解のずれがあり、国家レベルでの摩擦がたびたび生じるのは日本人が韓国人や中国人の心情を理解していないことに一つの理由があると思います。また、最近東南アジアからの留学生や労働者が増えていますが、彼らが日本語を習うだけでなく、日本にも彼らの言葉を学ぶ人々がいなければいけません。さらに、日本がアメリカとイランの仲介をして平和に向けて尽力しようとするなら当然イランの文化に精通した人が必要になります。こういった場合、専門家だけでなく一般の人々の間にもそれらの諸国の文化に目を向けるという意識が広がっていく必要があるように思います。

 

【英米の制度に倣った政治改革の失敗】

英国や米国の政治制度は俗に‶二大政党制〟とよばれ、政権交代が比較的容易に行われると考えられてきました。日本の1990年代の政治改革の一環として導入された衆議院の小選挙区制はこれをまねたものですが、この制度は得票率と獲得議数の間に大きな差が出やすいという弊害があります。(日本の制度では比例代表制との並立でその弊害を抑えようとしています。)また、小選挙区制では議論がAかBかの二者択一になりがちで、細かい意見の差が無視され、国論が分断されることが多くなります。イギリスでは欧州連合離脱(Brexit)の国民投票の際に結果が地理的・世代的に真二つに分かれました。アメリカでは2016年に、全有権者数からの得票数がヒラリー・クリントン以下であったにもかかわらず、ドナルド・トランプが大統領になりました。

 

アメリカの大統領選挙は有権者が「大統領選挙人」を選ぶ間接選挙で、そのプロセスは複雑ですが、いずれにしても、最終的に一人の大統領を選ぶ大統領選挙は全国を一小選挙区に見立てたようなものです。これに対して、国会議員を比例代表制で選ぶと小政党も議員を送れることになり、国民の意見の縮図としての国会が実現されます。意見をAかBかに集約するのでは無く、多様性がそのまま反映されるのです。そのような国会で首相を選出し内閣を組むためには、議会で多数議席を有することが必要になるため連立政権が多くなりますが、その場合連立内閣には連立参加諸政党の意見が反映されることが期待できます。また、政権交代が起きるときも「右」と「左」が入れ替わるだけでなく、「中道」政党が政権をとる可能性や「右」と「左」の大連合もあり、特定の政策を軸に「中」ぬきで「右」と「左」が連合する可能性をも否定しません。国民の議論がAかBかの持論に膠着していない限り多くの選択肢が残るのです。

 

しかし選択肢が多くあるということ、意見が多くあるということは、「一枚岩」である状態より不安定であることは避けられません。「和」というものを「守るべき和やかな状態」ととらえると「一枚岩」が望ましいようにも思えます。しかし、「個という意識」はパンドラの箱のようなもので、いったん生まれたらそれを押し殺すことはできません。21世紀における「和」は「さまざまな意見からコンセンサスを導きハーモニーを奏でる」ことです。「相互依存」の世界の中でお互いの「多様性と主体性」を認め合い「責任ある参画」によって「和」をつくるのです。

 

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社会三分節研究室・林寧志

オーストラリア、メルボルン在住

 

 

 

 

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