今回のブログは、オーストラリアの公共放送ABCのラジオ番組Future Tenseで2019年3月10に放送された「交通機関の無料化で都市問題を解決できるか?」という番組を聞いて自分なりに考えたことを書きます。わたしの雑感なので、番組の内容や結論そのものではありません。
さて、この番組はルクセンブルク政府が発表した、2020年3月からルクセンブルク国内のバス・市電・鉄道の交通機関を万人に対してすべて無料にするという政策について解説し、それが環境汚染や混雑などの都市問題の解決にいたるかを考察したものです。ルクセンブルクはヨーロッパのドイツ・フランス・ベルギーに囲まれた神奈川県ほどの面積の小国で、人口は60万人ほどですが、それに加えて19万人ほどが国外から通勤しているそうです。(The Conversation, 2019年1月17日theconversation.com)交通機関の無料化は道路の混雑や大気汚染を和らげるのが目的ですが、実際に望まれるような効果が期待できるのでしょうか?また、そのような政策は財政的に維持することが可能でしょうか。
【エストニアの交通政策】
国土全体で交通機関の無料化を実施するのはルクセンブルクの例が世界で初めてのようですが、都市レベルでは、市の中心部で交通機関の無料化が行われたり、バスは無料で鉄道は有料、あるいは市民には無料でそれ以外の人々には有料など、さまざまな例があるといいます。エストニアの首都タリンでは2013年から市民には交通機関が無料(観光客やその他訪問者は有料)になり、政治的には人気があったものの、無料化によって市民がマイカーから交通機関に鞍替えしたかというと、結果はそうでもなさそうです。交通機関の利用者が増加したのは事実のようですが、調べてみると、お金がかかるために今まで遠出しなかった人々や、これまで歩いたり自転車を使っていた人々が交通機関を利用するようになったというのが本当のところのようです。つまり、以前からマイカーで自由に移動していた人たちは依然とマイカーを使っているということで、混雑解消には全く結びついていないのです。ルクセンブルクの場合も同じであろうというのが識者の意見のようです。
【有利な交通機関、マイカーは不利?】
交通機関の料金が高くては乗客が増えませんが、料金を無料にしただけではクルマを使っている人々を転向させることはできません。「玄関から目的地まで」いつでも自由に移動できるクルマに比べれば、公共交通機関は手間がかかります。大都市周辺なら路線も充実していてバスや電車の本数も多いでしょうが、最寄りの駅や停留所まで30分以上歩いたり、1時間も待たなくてはならないようでは、現代の生活スタイルには合いません。交通機関で問題になるのは、料金以前にまず運行計画が利用者のニーズに合致しているかです。もちろん、充実した運航計画を維持するためには運営資金がかかります。そのためには多数の利用者が必要になりますし、補助金が必要な地域も出てくるでしょう。
特定の状況にある交通機関の運賃を無料にしただけでは、かえって逆効果になるという意見もあります。一部の人がクルマから交通機関に移ると道路の混雑が減り、新たにクルマを使う人が出てくるというわけです。道路も交通機関も両方混み合ってしまいます。朝晩2回の「民族大移動」ということになると、ラッシュアワーのピーク時の需要に応えるためにたくさんの車両や運転手を確保する必要が出ますが、日中に乗客がいないとなると、それが無駄になったり、運転手の勤務時間が異常なものになってしまいます。
とるべき措置は、都市が混雑する時間帯にクルマを乗り入れることが高くつくようにすることです。つまり、駐車場の料金、都市中心部での混雑課金、燃料税などを導入することで、マイカー利用者に嫌われるような政策です。そもそもクルマを減らそうとするなら、マイカーを所有するのに非常にカネがかかるようにすればよいのかもしれません。
【あるべき料金】
大雑把な話しかできませんが、そもそもクルマが増えると道路の整備にお金がかかりますし、新たな道路を建設する必要も出てきます。交通量の増加やクルマの渋滞によって住民の生活に悪影響が出るとなると、それを修正したり見返りを施したりするためのコストがかかるはずです。これらは通常税金から賄われていますが、これは実はクルマを所有し、利用する上でのコストなわけですから、ある程度、利用者・受益者負担ということでよいはずです。駐車場の料金、都市中心部での混雑課金、燃料税などはクルマを都市に乗り入れるための費用に当然含まれるべきもので、それをしないことが実はクルマを利用する人たちに補助金を出しているようなものです。
これは、原子力発電所の電力供給コスト(そしてそこからくる電気代)に放射性廃棄物の処理にかかる費用や事故が起きた場合の対策費などを含めないと、本当のコストにならないのと同じです。プラスチックの製品は安価に製造できても、それを回収し廃棄するまでのコストをその費用に含めないと、コミュニティー全体が結局代償を支払う羽目になります。(その間、電力会社や石油化学産業など、不当に金もうけする会社が出てきます。)
こう見てくると、首都圏に人口が集中することによっていろいろな弊害が出ていること自体、視点を変えて見直す必要があるのではないでしょうか。首都圏の地価は非常に高く、とくに住宅の価格に顕著に現れますが、実は企業にもっと肩代わりしてもらうべきところなのかもしれません。通常は、首都圏で事業を経営するほうがいろいろな面で有利だということで、企業が東京に集中します。けれども、多くの企業が東京で営業することからくる「社会への隠れたコスト」もあるわけで、それを企業に「地価税」という形で国や都県に納めてもらうようにすると、最終的にバランスが取れるのではないでしょうか。地方で事業を営む方が経費が掛からないとなれば、地方に移転してもらうために税金軽減などのインセンティブを施さなくても、企業は東京を離れるはずです。このような土地への考え方が、ヘンリー・ジョージが提唱した地価税による土地管理の方法にあります。
【既得権から独立した当局】
ジョージズムやシュタイナーの社会三分節の考え方では土地は万人に属するもの(コモンズ)で、その管理は国や自治体が行い、私的に売買されるものではありません。その際、監督官庁が一部企業と利権関係にあってはならないのはもちろんです。
政党・政治家、あるいは政府自体が原子力発電やたばこ産業から利益を得ていると、それらに対する健全な立法や規制が実行できないことは、皆さんもよく承知していることでしょう。つまり、法の制定に関わる議会や事業者を監督する官庁は経済界から全く独立していなければならないのです。政官界は、本質的には、国民・市民がどんな形で電気を得ようと、どんな嗜好品を消費しようと、どんな交通機関を利用しようと無関心であるべきです。関与するべきは、どの人間も平等の権利を持ち、文化的事業や経済的事業が誰の権利も損なわれずに運営・経営されるように法を制定し、規制を実施することです。「原子力を使って発電するのも結構、ただし、環境への影響が出る場合にはそれを完全に元に戻す責任もありますよ。」「便利なクルマをつくるのも結構、一人一人がクルマを持つのも結構、ただし、環境や社会に対する影響にも責任を持ってもらいますよ。」というわけです。
国が主導して産業を立ち上げ、社会政策を練ってきた今までのあり方からすれば、国が個々の政策内容を直接促進・指導しないのでは秩序がなくなるように見えるでしょう。けれども、そういう形でないと、天然資源のアクセスや利用を統制したり、廃棄物や排出物の処分や騒音などの対策、その他コミュニティー悪影響を与えることをしっかり取り締まることができません。中立の審判員がいたほうが試合がうまく運び、審判自らが試合に参加しては健全な試合にならないのと似ています。
そうはいっても、一般の有権者それぞれがマイカーを持つ既得権益者である現在、「混雑税」や高い駐車料金を払わせるような政策には投票しない、やっぱり使い捨てのほうがラクだからプラスチックの製品はなくならない・・・などと言っていると、原発もなくなりません。究極的には、社会を変革するのは政治でも経済でもなく、「市民の意識」という文化の領域の問題なのです。
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