社会を有機体として見た場合の三分節性は、今までに述べた「三界分立」の側面だけでなく、個々の社会活動の中での精神・権利・経済の「三層構造」としても現れます。個人と集団は一方が他方に仕えるものでなく、どちらも尊重されなければならないと考えるなら、現代のどんな社会的場面においても、個人は自分の内面で自由であり、他者との関係では平等の原則に基づき、集団に影響を与える事柄では関係者と連携・協議して事に当たるのが望ましいと言えます。市民界に属する学校であれ、実業界に属する工場であれ、それぞれの事業が「精神的方向付け・権利関係・経済活動」という三層構造を備えており、その場合も「自由・平等・友愛」原理が指針となります。
具体的に学校を例に考えてみましょう。三界分立という観点からすると公立学校と私立学校の区別はそもそもあるべきではなく、各学校が「独立学校」となるのが望ましいと言えます。その場合、各学校がそれぞれの設立理念に基づき「精神的方向付け」を行ない、教育に対するアプローチを決めます。一般の学校で行われている学習指導要領に基づく教育を行う学校もあるでしょうし、宗教教育をカリキュラムに含める学校もありましょう。シュタイナー学校のような独自のアプローチをとる学校ももちろん認められるべきです。「精神的方向付け」は自由でなければなりません。ただし自由といっても、自分勝手・独りよがりの自由ではなく、子供の教育という専門性をもった教師の集団が判断する自由です。もちろん保護者の側も自分の子供のために学校を自由に選ぶのですから、教師の側もその期待に応えるような教育を行わなければなりません。学校のような精神・文化に属する活動の場合「多様性」が重要となります。
しかし、個々の学校は孤島に存在するのではありません。精神・文化の内容では自由が指導原理だとしても、社会関係においては当然法律が存在します。したがって、どの学校も市民一般が合意した子供の権利を護り、社会的責任を全うする義務があります。体罰は違法であるとか、障害を理由とする差別はあってはならないという社会の判断は、どの学校も尊重しなければなりません。また、法律・条例等はどの学校にも平等に適用される必要があります。学校の教育活動には色々な規制がつくものですが、「名門校だから」、「宗教学校だから」などの理由で規則を緩和したり強化したりすることがあってはなりません。
学校という組織においては通常経済活動は行われません。したがって、「経済の友愛」がそのまま学校に当てはまることはないように思います。(公立・私立の区別をなくした場合、学校の資金はどこから来るべきか、教職員の報酬はどうあるべきか、という問題はそもそも経済活動の問題ではありません。このようなことに関しての社会三分節やシュタイナーの経済学に基づく考え方についても、いずれ紹介していきたいと思います。)
実業界に属する工場を例にとるとどうなるでしょう。「精神的方向付け」は起業家の才知・ビジョンに認められます。起業家・経営者としての才能があれば、社会のニーズを認め、技術を持った人材を集めて会社・工場を立ち上げる自由を発揮できます。「自由経済」はこの部分に当てはまります。個々の労働者について見れば、精神文化領域で働く教師は教育現場で自分の自由精神を発揮することが求められますが、経済領域で働く労働者にとっては自分の自由精神を発揮する機会はあまり多くないかもしれません。また、権利関係について見ると、会社・工場も法律に従わなければなりません。対外的な責任と従業員に対する責任とがあるのは学校も工場も同じです。大企業であっても零細企業であっても権利関係においては「法の下の平等」が当てはまります。経済活動については工場の操業そのものですが、そこでの友愛・互恵は、実際には他の生産者・流通業者・消費者との「連携協議」という形をとります。特定の製品の生産量 を調節(統制ではない)したり、飽和状態にある産業の一部を他の産業に転換させたりするのが目的です。経営者はこの「連携協議」の要請に応える形で事業計画を見直します。
これまで見てきたように「社会有機体の三分節性」は社会のどの場面にも現れます。このウェブサイトでは、個々の社会組織に存在する精神文化・権利関係・経済活動については「三層構造」という語を使い、市民界・政府界・実業界の区別を論じる時には「三界分立」の語を用い、それらをまとめるものとして「社会三分節」という言葉を使っています。