世界金融危機の記憶が薄れてゆく中、2010年のEU債務危機や昨年のアメリカ債務危機など小規模の危機的状況が頻発しつつも、政治制度は経済の持つ構造的問題を解決できないでいる。イギリスは経済主権の回復を模索してついにヨーロッパ連合からの離脱を決定した。自由貿易を促進するという名目で合意されたTPP協定は巨大な多国籍企業を諸国家の上に置く権利を与えるかのように見えたが、自国の産業保護を目指すアメリカのトランプ次期大統領はその承認拒否を表明している。一方トランプ次期大統領は国家運営を企業経営のように実行する計画のようである。日本ではアベノミクスが日本経済の復活を試みているはずであるが、安倍首相は憲法改正や外交問題に取り組む方により積極的のようである。福島原発での汚染水漏れが続きながらも脱原発の市民の声は政界・実業界に届かない。高齢化や所得格差の拡大が進む中でどのように福祉政策を充実してゆくのか、教育改革の方向はどうあるべきか、なかなか答えが見つからない。なぜ、市民と政治と経済の間に調和がないのか? 本書は「社会の三分節化」という観点を用いてイギリスにおける社会事情・政治経済問題を解説・分析し、どこが病んでいるのかを示すと同時に、市民界、政府官界、実業界の分立・協働を説きながら、自由な文化、平等に基づく政治、友愛の経済を社会に実現する方法を提示する。この観点はそのまま日本の社会事情の分析に役立つものである。 Martin Large, Common Wealth —For a free, equal, mutual and sustainable society, Hawthorn Press, Stroud, UK (www.hawthornpress.com), 2010, ISBN 978-903458-98-3.
第一部(1~3章)では、実業界(産)・政府界(官)を補完する第三の社会勢力NGO、NPOその他の文化事業をシビルソサエティ「市民界」として捉え、この三界の境界線を明確にすることを説く。そして文化の領域では市民界が自由・多様性の原理をもって導き、権利・法制度の領域では政府界が平等の原理をもって導き、経済活動の領域では実業界が友愛・協働の原理をもって導くことで社会が健全になるというビジョンを提示する。
第二部(4~7章)では、「三分節社会」の見取り図を用いて現代社会の問題点を分析し、いかに大企業の利益が国や文化を蝕んでいるかを指摘する。例えば、私有民営化によるコモンズの逸失、カネで買われた計画策定制度が大資本の生存のみ保障していること、官民癒着、大企業によるマスコミ支配、世論の操作、医療や教育のビジネス化、企業による科学の買収などは、いずれも企業利益が国や文化を乗っ取ったからであると論じる。これらの状況は市場原理主義型資本主義の進展によってますます悪化している。実例は英国からのものが主であるが日本社会に当てはまる事例が多く、本章を読むことによって日本の現状を分析するための新しい視点が得られる。
第三部(8~12章)では、三分節論の視点から社会問題の根幹にある資本、労働、土地の捉え方に焦点を当て、土地や資源だけでなく資本も社会のおかげで蓄積されたコモンズであると考え、資本信託、土地信託などの方策を提示し、労働は商品ではなく市民の権利であるという観点からベーシックインカムを提唱する。市場原理型資本主義でも統制経済でもない新たなアプローチとしてかなりラディカルな提案もあるが、個人レベルで社会変革を促すための手がかりも同時に示されている。
また、各章の囲み記事では、英米の時事問題に関する市民的視点からの論評を紹介する一方、グローバルに考えながらもローカルに行動するために数々のコミュニティ発展の実践を紹介する。これは日本全国で活動する市民運動の指針となるであろう。
「社会の三分節化」は元来、第一次世界大戦末期のドイツでシュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーによって提唱されたもので、その著『社会問題の核心』は日本でも2010年に 春秋社から出版されている。「三分節論」は決してシュタイナーのイデオロギーではないが、今までシュタイナー思想に関心のある向き以外には知られていなかった。本原書の著者マーティン・ラージは「三分節論」に基づくものとしては初めて、『狂奔する資本主義』(ダイヤモンド社2007年)の著者アンドルー・グリン、『祝福を受けた不安-サステナビリティ革命の可能性 』(バジリコ 2009年))の著者ポール・ホーケン、『大転換―帝国から地球共同体へ』(一灯舎 2009年)の著者デービッド・コーテン、『(新訳)大転換』(東洋経済新報社2009年) の著者カール・ポランニー、『U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術』(英治出版2010年)のオットー・シャーマーなども引用しながら、一般読者のために社会の現状を具体的に分析し、新しい社会ビジョンに基づく実際的な変革方法を示している。
マーティン・ラージは個人発展、組織発展、コミュニティの発展、社会発展を促すファシリテーターとして活躍している。これまでこの仕事を通じて取引してきたのは、様々な市民界組織、政府諸機関、小企業から多国籍企業に至るまでの一連のビジネスなどである。ここで必要なのは各レベルの人々を一堂に集め、協議し、それぞれの持つ資財を有効利用できるような状況を総作り出すこと、それぞれの人々が直面する状況や主要問題を探ること、成功する方法・しない方法を評価・判断すること、今出現する望まれる未来の実現に焦点を当てることなどである。
ラージは教育にも携わり、グロスタシャー大学の前身で経営学や組織行動学について講義した経験もあり、また、ソーシャル・エコロジー・アソシエーツおよび「持続可能な未来」の経営コンサルタントとしても活躍している。二十九年間出版社を経営し、非営利会社ストラウド・コモン・ウェルスの理事長を務め、劇場・大学・協同組合・社会的企業センター・コミュニティ土地信託など、多様な文化的プロジェクトの発展に取り組んできた。
マーティン・ラージのモットーは「頭に詰め込むより心に火をつける」である。
本書の邦訳に際しては、経済学や労働組合運動に詳しい実弟林克之氏に訳稿を検討していただき貴重なアドバイスをたくさんいただきました。ここに感謝の念を表します。また、本サイトでの邦訳発表に快く承諾してくださった原著者マーティン・ラージ氏にも謝辞を表します。