個人が集まって集団が形成されますが、個人の利益と社会の利益は対立することがあります。「私」個人にとって望ましいことでもそれが社会を損なうことがありますし、社会にとって望ましいことでも「私」にとっては受け入れがたいこともあります。個人と社会の関係は常に社会的ジレンマを伴うものです。
「自由・平等・友愛」というフランス革命のスローガンがあります。「自由」はもちろん個人、すなわち市民一人ひとりに当てはまらなければなりません。「個人の自由」がうたわれる社会では当然のことながら多様性と寛容がともに貴ばれる必要があります。自分のための自由を他人に認めてほしければ、自分も他人の自由を認めなければ社会として成り立ちません。それが自由社会というものです。しかし全く制約のない「自由」を社会全体に認めると弱者の自由が損なわれ、無秩序な弱肉強食の社会が生まれてしまいます。
民主社会は貴族政治や武力社会を否定するものとして生まれ、市民一人ひとりの間の「平等」が基本となっています。代表民主制においては、各有権者が同じ価値の一票を投じて代議士を選び、自分の意見を平等に議会に反映させます。公の場では市民一人ひとりが差別や依怙ひいきなく平等に扱われます。しかし、「平等」の理念を人間生活全体に推し進めてしまうと、皆が同じことを〝平等に〟行うことが期待されるようになり、個人の自由が締め出されかねません。極端な平等は、誰もが同じ行動をとるように強制する全体主義に通じる危険があります。
「自由」と「平等」のふたつの理念だけでは社会は健全に機能しません。「平等」の原理は必ずしもコミュニティ全体の福利を促進するものではないからです。「集団の福利」を促すものとして「友愛」や「連帯」という言葉が使われます。市民一人ひとりが自由でありながら、なおかつ、コミュニティ内の他者の福利を保障すべく努めるときに「友愛」という理念が生きてきます。皆がわがまま勝手であっては「友愛」は存在しませんし、たとえコミュニティのすべてのメンバーに福利が還元されるからと言って、行動が強制されるのであれば「友愛」とは言い難いでしょう。国民の間に自然に生まれてくる愛国心は健全ですが、それが強制されては問題があります。
「個人の自由」、「各人の平等」、「他者への友愛」の三者がそろって初めて現代社会は健全に機能します。問題は、自由・平等・友愛の理念をそれぞれ社会のどの場面に当てはめるかです。